研修報告
人文・文化学群比較文化学類2年 藤岡正吾
1. 研修参加の動機について
私には、「特別な人間」になりたいという願いがある。ここでいう「特別」とは、周囲の誰もがやったことのない経験をしたり、知識やスキルを持っていたりすることを指す。カザフスタンでロシア語を学ぶことは、私をこの目標に近づける大きな経験になると確信し、参加を決意した。
私がこの研修で掲げた目標は、次の2点である。
一つ目は、「ロシア語を少しでも使えるようになる」ことだ。この研修に参加することを決めたのは2023年度の冬であり、2024年度は二年生ながらロシア語の授業を取り始めた。一年勉強して、キリル文字の読み書きと簡単な挨拶程度はできるようになった。しかし、文法の知識や単語の語彙は圧倒的に不足しており、実際にロシア語を使う環境に出ることで少しでも実用的なロシア語を身につけたいと考えていた。
二つ目は、「カザフスタンのことを周囲に説明できるようになる」ことだ。出国前まで、カザフスタンのことは「中央アジアの大きな国」程度の認識だった。しかし、「旧ソ連圏かつイスラーム中心の内陸国家」という、日本とは正反対な性質を持つけれども同じアジアの国という性質に、私は強く惹かれた。いったいどのような人々が、どのような街のなかで、どのような暮らしを営んでいるのだろうか。周囲の日本人が全く説明できないし想像もつかないだろう。そんな国の暮らしを少しは説明できる人間は、私の思う「特別な人間」の要素の一つだ。
2. カザフスタン共和国についての考察
カザフスタンでの生活で印象的だったのは、多様なルーツや宗教、慣習をもつ人々が共生する社会が成熟していることだ。ヨーロッパやアメリカでのアジア人や黒人に対する差別、日本での外国人差別と同様の現象がほとんど見られない。なぜ、このような社会が成立しているのだろうか。私はこの理由について、カザフスタンの地域は「みんな違って当たり前」だったからだと考えている。カザフスタンは、カザフ系をはじめ、ロシア系や朝鮮系、ドイツ系、ウイグル系、トゥルク系と、他にも書き切れないほど多くのルーツを持った人が暮らしている。また、自身の民族や信仰のかたちをアクセサリーや服装で堂々と示している。つまり、「みんな違う」のが普通なのだ。
日本で暮らしていると、周囲にいる人間のほとんどは日本人だとすぐに分かる顔をして、日本語を話している。少し乱暴に言えば、「みんな同じ」なのが普通である。日本は島国で、昔から限られた人々としか交流してこなかった。外部との接触が限りなく少ないことは、仲間たちの和を乱さないように工夫する国民性を育てた。2025年3月15日に開催された第28回カザフスタン日本語弁論大会では、登壇者のうちの数名が「八方美人」や「はっきりと意見を言わない」というような日本人の国民性に言及していた。私はこれを、カザフ人から見た日本人の目立つ性質であると認識した。
また、アメリカは段階的にいくつかの系等の人種・民族が流入してきた歴史をもつし、ヨーロッパにはゲルマン系やラテン系等分類はあるが白人がほとんどの社会であった。これらの地域は、新しい移民への差別感情がいまでも問題を引き起こしている。対して、カザフスタンは、古くからシルクロードの中間として、中国とイスラーム世界、遊牧民の交流の地であった。この事実は、アルマティの大学、アスタナの博物館、トルキスタンの観光施設等各地で強調されており、カザフスタンに生きる人々において重要な歴史として扱われていることが分かる。日本も中国や朝鮮半島、南蛮等を経由して知識を輸入してはいたものの、交流する人間や物品の数は桁違いであっただろう。ここに居住する人は、もとから多様であったのだ。
また、ソ連時代の統治方法も現在のカザフスタンの多民族共生に大きく影響していると言える。スターリンは大祖国戦争をきっかけに、ひとつのソ連という国を目指して支配地域へのロシア語教育を進めた。これにより、人種や民族が違っても、同じロシア語を話すソ連人民であるという意識が強化されることになる。
ただ、共生社会であるためには、同一の国民である意識の他にも、互いのルーツや信仰を尊重する意識が必要だ。多様なルーツや民族で溢れる中で、自らの一族の血や民俗を繋いでゆくためには、埋没しないよう主張し続ける必要がある。その主張を認めあうからこそ、真の共生社会が生まれる。
「多様なルーツを尊重し合いながらも、同じ言語を話す」という特殊な環境により、カザフスタンは成熟した多民族共生社会を有しているのだろう。
3. 語学研修に参加する前後での自己変化についての分析
研修前後で起きた自己変化は複数ある。まずは、いままで無意識に判別していた「この顔立ちは〇〇人」という基準が通用しないと理解したことだ。この一ヶ月のなかで、様々な顔立ちのカザフ人を見てきた。例えば、道ばたで「中国人かい⁇」と話しかけてきた朝鮮系の顔立ちをした若い男性は、カザフ人だった。ベンツで現れたドイツ人の顔立ちをしたタクシードライバーも、カザフ人だった。留学先で出会ったカザフ人学生は、私の通っていた高校の同級生にそっくりだった。そして何より、私は日本人のつもりでいたが、5回ほどカザフ人だと間違われた。2025年3月15日の第28回カザフスタン日本語弁論大会で民俗舞踊を披露したが、観客のカザフ人らしきお婆さんからおそらくカザフ語でたいへん大きな賞賛をいただいた。日本人であることを伝えるとかなり驚いた様子で、顔がとてもカザフ人に似ていると言われた。また、2025年3月20日に訪れた南部トルキスタンで案内してくれた現地のカザフ人男性にも、カザフ人にそっくりだと言われた。このほかにも、寝台列車の食堂車や売店のレジ打ち女性に「なぜカザフ語/ロシア語が通じないのだ」とかなり怪訝な顔をされた。
確かに私の顔ははっきりとしていて、眉や目が目立つ。日本人にしては濃い方だと自認していたが、ここまで間違われるとは思ってもみなかった。もはや顔立ちによって国籍や民族を推測することは無駄であるということを痛感した。
次に、イスラームの信仰についての先入観が解消されたことである。ホストファミリーはムスリムであり、家にはアラビア語で書かれた紙やモスクのシールが貼られていた。家の地下には礼拝のためのじゅうたんのスペースが広がっていた。しかし、そのスペースを使って礼拝する様子は一度も見られなかった。ファミリーの女性陣も服装や髪型は自由で、布で隠す様子は全く見られない。また、期間はちょうどラマダンに重複していたが、構わず食事をしていた。ホストシスターたちも不自由なく学校に行っているし、ムスリム女性の教員も非常に多い。社会進出はよどみなく進んでいる。この面は、ソ連の男女平等型社会の名残の面も大きいだろう。
ラマダンの過ごし方は個人によって異なる。厳格に飲食を制限する者もいれば、酒は控えるが食事は普通に摂る者、全く断食をせず普段通りに過ごす者まで様々だ。また、町中でどこからともなくコーランが聞こえてきたり、レストランの部屋の隅で絨毯を敷いて礼拝を始める人がいたりするが、周囲の人は気にとめない。
以上の事例から、イスラームは個人の信仰のかたちを尊重する、とても柔軟な宗教だということを知った。そして、「イスラーム」と聞いて私が真っ先に連想したタリバンやイスラーム国といった厳しく信仰の形を制限する集団はまさしくイスラーム「過激派」なのだと気づかされた。現在のカザフスタンの様子を見てパフレヴィー朝の頃のイランを連想する。この時期のイランはカザフスタンと同様に自由な信仰が許されていたと聞く。しかし現在は、公権力による信仰の形の制限が行われている。カザフスタンも、現在は安定しているが実態はイスラーム権威主義的な統治を行っている。いつイランのような変化が起きるか不透明であることは、不安要素である。
また、カザフスタン国民の核に関する関心の高さにも驚かされた。カザフスタンでは旧ソ連時代に数多の核実験が行われた。その背景があるからかどうかは大いに検討の余地があるが、多くの人から広島・長崎の核についての言及があった。2025年3月3日にアスタナでお世話になったタクシー運転手に日本人であることを話すと、「ヒロシマとナガサキのことは知っている、心が痛む」と言ってくれた。国際女性デーの日のホームパーティーでは、ホストファミリーの親戚から「ヒロシマ・ナガサキ・フクシマ」という地名が出てきた。実際に核兵器や核汚染のことをどう考えているのかや、原子爆弾への関心については詳しく調べてみたい。
戦争に関連して、抑留された日本人への感謝をたびたび伝えられ、シベリア抑留についての認識も変化した。いままで、シベリア抑留は強制労働所の中でひたすらに木を切りながら帰国の日を待ちわびていたとイメージしていた。しかし、アルマティの抑留者は、アルマティの都市開発に大きく貢献したようだ。ここで、ホームステイ先から大学まで向かうタクシーの中で運転手の中年女性が説明してくれたことを要約する。「戦後抑留された日本人たちはとても勤勉かつ真面目に作業に従事した。アルマティ近郊の橋や市内の建築物は彼らによって建てられた。これらはとても丈夫で、80年が経つけれども大切に使われている。野良犬同然の境遇だったが、アルマティ市民は彼らに感謝し、食料を分け与えた。死んでしまった者は墓地に埋葬した。」という。実際にアルマティの日本人墓地に足を運んだが、現在も手入れが行き届いており、祈念碑には新しい花が供えられていた。強制労働に従事し、祖国の地を踏めないままここで眠る日本人の方々と、現在に至るまで支え続けてくださっているアルマティ市民の方々双方に敬意を表したいと強く思う。
そして私がこの期間で最も印象に残ったものは、2025年3月16日に訪れたタンバリタス遺跡で見た地平線である。小高い丘の上に座り、この平原で続いてきた遊牧民たちの生活に思いを馳せていた。いままで世界史で習ったことしかなかった遊牧民たちが生きる場所を目の当たりにして、その果てしなさにただ圧倒された。この場所で確かに存在するのは太陽だけであって、彼らを導いてきたのだろう。カザフスタンの国旗に太陽が描かれている意味を感じ取った。また、この平原はまさしく海であり、馬は船となってこの地を進んでいたのだろう。
日本に住んでいると、水平線を見ることはできても地平線を見ることはほとんどない。ユーラシア大陸の中心に初めて立ったとき、人間の小ささと、どこまでも歩いて行ける可能性に気づかされた。遊牧民やシルクロードのキャラバンたちは、この何もない平原をひたすら歩き続け、物品や知識を運んでいたと思うと、胸が高鳴る。「自分も自然の中に生きる者の一つとしてこの大地に立っているんだ、生きなければならないんだ」と、強く思った。
以上の5点を自己変化の分析として提示する。

4.おわりに
カザフスタンで過ごした一ヶ月は、私にとって忘れられない経験になった。アルマティはとても過ごしやすく、何度でも訪れたいし、今回出会った人々にまた会いたいと強く思う。必ず再訪しようと思う。